愛媛県内屈指の進学校、松山東が秋季高校野球愛媛大会で準優勝し、63年ぶりに四国大会出場を決めた。
俳人・正岡子規がルーツという野球部は県内最古の1892年創部。
1950年夏には、松山商との統合で全国制覇も経験している。
来春センバツ出場を果たせば65年ぶりの甲子園で、春に限れば実に82年ぶりの出場となる。
長い長い低迷期を経て、レジェンド校が聖地を目指す。
文武両道‐。高校球児の理想を実践する松山東ナインの快進撃に、愛媛の野球ファンが沸いた。
あと一歩で甲子園を逃した夏に続き、秋の県大会でも準優勝。実に63年ぶりとなる四国大会出場を現実のものとした。
ノーベル賞作家・大江健三郎氏らを輩出した県内屈指の進学校として知られるが、
野球ではここ数十年、目立った成績がなかった。
それだけに応援団の声援は熱い。「卒業生の方々の期待の大きさを感じます。ひと暴れしたいですね」。
四国大会を前に、同校OBでもある堀内準一監督の言葉に力がこもる。
同校野球部は1892年創部で、県内最古の歴史を誇る。 ルーツは明治の俳人・正岡子規だ。
1889年に東京からバットとボールを持って帰省した子規が、母校・松山中学(松山東の前身)の後輩たちに野球を伝授。
それがきっかけで野球が大流行し、3年後に球技同好会ができたと伝えられる。
子規は自身の幼名「升(のぼる)」にちなんで「野球(の・ボール)」という雅号を用いるなど、
野球をこよなく愛した。そんな子規の情熱が、同校野球部の原点だ。
松山中時代の1933年には春夏連続で甲子園出場。松山商と統合(1949~54年)
していた1950年夏には全国制覇も経験している。
その大会のレギュラーは商業科(松山商)の選手が6人、普通科(松山東)が3人。
ライバル関係にあった名門と力を合わせてつかんだ栄冠だった。
その優勝のあと長い低迷期が続いた野球部に、復活の時が訪れようとしている。
この夏、前主将の村上貴哉内野手(3年)を中心に県大会で決勝進出。
最後は小松に敗れ甲子園の夢は絶たれたが、エース右腕・亀岡優樹投手(2年)らが残った新チームは
秋の県大会でも勝利を重ねた。
準々決勝で小松を破ると、準決勝では亀岡が抜群の制球力を武器に新田の強力打線に対し6安打2失点。
3‐2の勝利で四国切符をつかみ取った。
練習環境は決して恵まれてはいない。グラウンドはサッカー部、ラグビー部、ハンドボール部と共用。
平日は内野しか使えない。しかも学校の規則で午後7時10分に下校しなければならず、
他の強豪校に比べれば練習時間は格段に少ない。
31人の部員の中には練習後、塾に通う者もいる。
たとえば秋の県大会で12打数5安打と活躍した2番・石山太郎内野手(2年)は、
毎日午後7時半から2時間、塾で勉強に励む。家が農業を営んでおり「大学で品種改良の研究をしたい」。
これまで東大や京大に進んだOBも数多く、ナインは受験勉強にも全力投球だ。
(ディリースポーツ記事より抜粋)